kikurageoisii’s diary

東京のOL23歳 

人が死んだ時に花に囲まれる理由

純粋な気持ちで花を愛でてみたい。

人が居なくなるということが未だによく分からないし、花を見てほんの少しだけ悲しくなるのは、可愛くて綺麗な花に、ふわふわしてそれでいて乾いた思い出が付き纏っているせいだと気付いた。

 

 今日みたいに晴れて風が心地良い日だった。

家族旅行で訪れたハウステンボスに着いた瞬間、母の携帯に祖父の訃報を告げる電話が来て、私達家族は直ぐに帰ることになった。

急いでとった帰りのバスまで時間があるから父親と園内を回っておいで、と言われ、訳も分からぬ感情のまま取り敢えずその場を離れた。

何を思ったのか、無理やり風車の前で写真を撮らされた。その状況で園内を散歩して花を愛でて笑顔で写真など撮れるはずがないが、笑うのが正解だったのだろうか。

母はあの時間で泣いていたりしたんだろうか。

綺麗に植えられた満開のチューリップ畑を後にして、感情の正解が分からぬまま家に帰った。その後はすごい速さで葬式が終わり、1年、2年と過ぎて行った。

 

 自分の何もかもが気に食わなかった時は恋人と車で公園に花を見に行った。

きっかけは忘れたがおそらく私の些細な我儘が原因で喧嘩をした。

写真には泣いたあとの顔の私と昔の恋人と綺麗に植えられた公園の花が写っていた。

あんなに当時恋と恋人に固執していたのに、もうあの頃のエネルギーを恋愛に注ぐことは出来ない気がする。というか、生活において花を愛でたり、全力で何かにぶつかることはものすごく疲れる。

 

 誰にも言えない無理な恋愛をしていた時も、花を見に行った。

夜ではなく昼間の公園で2人で花見をしたことが嬉しくて、誰かに言いたくてたまらなかった。

誰にも言えなかったし一緒に写真を撮ろうとも言えなかった代わりに、1枚だけ桜の写真を撮った。

でもそんな気持ちは続かないしある日突然その人の振りかざす論理がプツリと嫌いになり、執着していた事がバカバカしくなった。連絡先を消して、大学に行って適当に遊んで就活をして、そのうちそんな日のことも思い出すことはなくなっていった。

 

こうして今後も、一緒にいた人やその人といた時の感情をふわりと忘れていったりするのだろうか。

思い出や悲しみなんてただ何となく花を見た時に少しだけ思い出して悲しくなるだけで十分で、それくらいのなんでもない日々に少しずつ散りばめられているだけでいい。

悲しみで使い果たせなかった感情の残り半分くらいで花に水をやったりしたいし、少しずつ、花を沢山愛せるようになりたい。