kikurageoisii’s diary

東京のOL23歳 

ひまわりを見に行こう

クレイジークレーマー

美しさってなんだろうね
お前だよとまでは言えるわけないけれど

ひまわりを見に行こう

 

andymoriで一番好きな歌です。

美しさって何なんでしょうか。

 

ミスコンの廃止が相次いだり、ヴィクトリアズシークレットのショーが無くなったり、水原希子さんが美しい顔ランキングについて疑問を投げかけたり、「見た目の華やかさに価値を見出し、美しさを競う」ということに対して世界が変わりつつあると感じでいる。

そんな中、ミスiDは例年と同じく開催されるのだろうか?と思っていた。

「かわいい」女の子が評価されるのだろうか?

「かわいい」女の子が頑張るから良いのだろうか?

個性=かわいいになるのだろうか?

 

可愛くなければスタートラインにすら立てない事が多過ぎると思う。

「ミスiDで勝ち残りたければゴーストライター雇えばいいと思う、知り合いもそうしてのし上がってきた女の子何人も知ってる」みたいな事をミスiDに出ている女の子を応援してる方に言われたけれど、それって私が応募してこうして文章を書いている本質から全くもってズレている。

それはその子のとった手段として否定する気はなく、あくまで従来のミスコン的な要素が参加者にも見ている方々にも染み付いている分、勝ち残るための効率的な考え方と手段だと思う。可愛い女の子が頑張っている、と見せることや、一種のプロデュースとしての成功例かもしれないが、「可愛い」に邪魔をされたくない自我のプライドが、近道の邪魔をする。

とことん自分は不器用だと思うし、最短ルートを拒否してしまう頑固さが、可愛げのなさや要領の悪さに繋がっているな、と思う。

 

同情を誘えばいいのか?圧倒的顔面の良さで勝負すればいいのか?コンテンツ力での勝負か?

審査員の一人一人ががどこに重きを置いて審査していくのかは分からないが、ミスコンである以上、正直ルックスの評価からは逃れられないと思っているし、覚悟はしている。

しかし他のミスコンに応募せず、ミスiDに応募したのは、こうして発信することを見てくれたりして、どこか他のミスコンよりも、皆が模索する「可愛い」や、「美しさ」に寄り添ってくれるのではないかと思ったからである。

可愛いが正義とされる世の中で可愛いと肯定されたいし、同時に可愛いの苦しさから解放されたくもある。

 

「可愛いは正義」「可愛い女の子が好き」という女の子に、私は昔からイマイチ共感出来ずにいた。

私が好きなのはかっこいい男の子だし、可愛い女の子に対して、憧れだったり綺麗だな、可愛いな、と思う気持ちはあっても、次の瞬間嫉妬に変わっていた。自分が持っていない美貌や、その麗しい容姿を使った華麗な生活に対して羨ましさや嫌悪感さえも感じていた。そして次の瞬間、堪らなく対比された自分が醜く惨めに感じるのだった。

SNSをやっていて、可愛い女の子が目に入ると自分に対してのやる気を無くしてしまうので、学生時代は片っ端からミュートしていた。

 

幸い、幸いすぎることに、容姿を褒めてもらえる機会がある。自分の容姿に対して自信が持てない分、たまらなく嬉しい。メイクをしたりダイエットをしたりして、日々自信のなさに押し潰されないように生きているのが、一言で一瞬救われたりする。お金があれば整形をしたいし、何処も彼処も脂肪吸引をして人形のように細くなりたい。全ての支度を終えて鏡を見た時に映った自分の醜さに絶望して出掛けられなくなる日や、自分の顔が嫌でボロボロと泣いてしまう日なんて、本当は私の人生にあって欲しくないのだ。

 

 時々、猛烈に「可愛い」や「美しさ」に取り憑かれた自分に疲れる。でも、美しくない自分にはもっと疲れるだろうし、美しさが正しく、得をすることが圧倒的に多い今の社会では生きていけない気がする。

そして私は今日も絶望を塗りつぶすように顔にメイクを施す。

 

クレイジークレーマー

そんな目しないで
世界で一番お前が正しいんだよって

俺が歌ってやる みんなの前で