kikurageoisii’s diary

東京のOL23歳 

おやすみ、怖い夢を見ないように

日々、沈んでゆく。

病名でも付いたら、病名でも付いたら、と、必死に受診した病院だってまるで意味が無い。

生きる事ってなんでこんなにお金がかかるし難しいんだろうか。

 

同居人がいきなり出て行ってから3日が過ぎて、なんにも出来なくなった。

あいつは私の平穏ついでにこの部屋の形を変えてしまったな、と思った。

息が詰まる実家から飛び出して作り出した私の大切な大切な可愛いお部屋。

部屋の平穏は心の平穏だな、と思う。

床に散らばる書類やら美容器具やらは、日に日に増えていくし、こんな事を書いてる途中でインターホンが鳴って飛び起きて見に行っては落胆してベッドに戻る自分にバカじゃないの、と言ってやりたい。が、そんな元気もない。

また居留守を使ってしまったな。

 

寝る前に明日が来ないように必死にお願いしても叶ったことは無いし、何事も強く願えば叶うなんて絶対嘘だと思う。

ずっと寝ていたいしずっと幸せな夢を見ていたいな。

小さい頃、何故かこの世界は夢の世界で、私は眠っていて、現実世界では別の両親がいて別の生活があって、だから今が辛くても夢だから大丈夫、と思っていた。当時特別辛いことなんて無かったはずだが、現実逃避の才能だけは小さい頃からあったらしい。

何にもしなくてもお腹はすくし、眠たくなる。めちゃくちゃ″生きてる″って感じで嫌になるなあ。

体が生を渇望しているし、心は反対へ向かってしまう。

とっちらかった心を入れた物体が横たわるのは、私の可愛い大切なお部屋のベッドしかないし、私はここでいつまでも幸せな夢だけを見ていたいなあ。

おやすみ、怖い夢を見ないように。

 

「潤滑油のような人間」に、ならなくてもいい

 私の絶望なんて、せいぜい恋人に浮気された時くらいだ。

それでも、薄味の絶望が、影のようにずっと、人生に付き纏っている気がする。

退屈、という訳でもない裕福な感情で日常を舐める。

 

 24年間で、人は不安だから何かに縋るのだと学んだ。お金でも、宗教でも、恋人でも。

絶対的な安心を手に入れた人は強い。

弱さに蓋をできる人は人生が上手い。

蓋を開け閉めできる人はもっと上手い。

ひたすらに守られて生きてきた子供時代を経て、図体ばかりが大きくなってしまって、自分に見合う蓋が見つからない。

ちょうど良い大きさの蓋を見つけたかと思えば、ものすごく重くて、肝心な時に開けられなかったりする。

煮詰まりすぎて、中身が腐ってしまったら意味が無い。

 

人生は少し料理に似ているな。

自分自身のお腹を満たすために、薄味の絶望と甘ったれた根性で、ギリギリ食べられる料理を作ってしまう。

一人っ子故なんでも与えられて育った私は、恋人と別れたとき、初めて食欲を失った。

それでも暫くして、日常に戻って行った。

 

今日も自分のために、生きるために食べる。

食べることは、自分のために生きることだ。

いつか、誰かに美味しい料理を振る舞えるといいな。

 

 

ひまわりを見に行こう

クレイジークレーマー

美しさってなんだろうね
お前だよとまでは言えるわけないけれど

ひまわりを見に行こう

 

andymoriで一番好きな歌です。

美しさって何なんでしょうか。

 

ミスコンの廃止が相次いだり、ヴィクトリアズシークレットのショーが無くなったり、水原希子さんが美しい顔ランキングについて疑問を投げかけたり、「見た目の華やかさに価値を見出し、美しさを競う」ということに対して世界が変わりつつあると感じでいる。

そんな中、ミスiDは例年と同じく開催されるのだろうか?と思っていた。

「かわいい」女の子が評価されるのだろうか?

「かわいい」女の子が頑張るから良いのだろうか?

個性=かわいいになるのだろうか?

 

可愛くなければスタートラインにすら立てない事が多過ぎると思う。

「ミスiDで勝ち残りたければゴーストライター雇えばいいと思う、知り合いもそうしてのし上がってきた女の子何人も知ってる」みたいな事をミスiDに出ている女の子を応援してる方に言われたけれど、それって私が応募してこうして文章を書いている本質から全くもってズレている。

それはその子のとった手段として否定する気はなく、あくまで従来のミスコン的な要素が参加者にも見ている方々にも染み付いている分、勝ち残るための効率的な考え方と手段だと思う。可愛い女の子が頑張っている、と見せることや、一種のプロデュースとしての成功例かもしれないが、「可愛い」に邪魔をされたくない自我のプライドが、近道の邪魔をする。

とことん自分は不器用だと思うし、最短ルートを拒否してしまう頑固さが、可愛げのなさや要領の悪さに繋がっているな、と思う。

 

同情を誘えばいいのか?圧倒的顔面の良さで勝負すればいいのか?コンテンツ力での勝負か?

審査員の一人一人ががどこに重きを置いて審査していくのかは分からないが、ミスコンである以上、正直ルックスの評価からは逃れられないと思っているし、覚悟はしている。

しかし他のミスコンに応募せず、ミスiDに応募したのは、こうして発信することを見てくれたりして、どこか他のミスコンよりも、皆が模索する「可愛い」や、「美しさ」に寄り添ってくれるのではないかと思ったからである。

可愛いが正義とされる世の中で可愛いと肯定されたいし、同時に可愛いの苦しさから解放されたくもある。

 

「可愛いは正義」「可愛い女の子が好き」という女の子に、私は昔からイマイチ共感出来ずにいた。

私が好きなのはかっこいい男の子だし、可愛い女の子に対して、憧れだったり綺麗だな、可愛いな、と思う気持ちはあっても、次の瞬間嫉妬に変わっていた。自分が持っていない美貌や、その麗しい容姿を使った華麗な生活に対して羨ましさや嫌悪感さえも感じていた。そして次の瞬間、堪らなく対比された自分が醜く惨めに感じるのだった。

SNSをやっていて、可愛い女の子が目に入ると自分に対してのやる気を無くしてしまうので、学生時代は片っ端からミュートしていた。

 

幸い、幸いすぎることに、容姿を褒めてもらえる機会がある。自分の容姿に対して自信が持てない分、たまらなく嬉しい。メイクをしたりダイエットをしたりして、日々自信のなさに押し潰されないように生きているのが、一言で一瞬救われたりする。お金があれば整形をしたいし、何処も彼処も脂肪吸引をして人形のように細くなりたい。全ての支度を終えて鏡を見た時に映った自分の醜さに絶望して出掛けられなくなる日や、自分の顔が嫌でボロボロと泣いてしまう日なんて、本当は私の人生にあって欲しくないのだ。

 

 時々、猛烈に「可愛い」や「美しさ」に取り憑かれた自分に疲れる。でも、美しくない自分にはもっと疲れるだろうし、美しさが正しく、得をすることが圧倒的に多い今の社会では生きていけない気がする。

そして私は今日も絶望を塗りつぶすように顔にメイクを施す。

 

クレイジークレーマー

そんな目しないで
世界で一番お前が正しいんだよって

俺が歌ってやる みんなの前で

雨宿り

雨が降ると大学を休むと決めていた。

幼少期、カッパを着なくなった時から子供ながらに大人になった気がしていたし、長靴を履いて喜んで水溜まりを踏まなくなった時から、そこに映った無邪気な夢に気付かなくなった。

小さい頃は空を見上げるのも下を向くのも楽しかった。

気付けば大きい傘で、オシャレなパンプスで、水溜まりを避けて生活していた。

 

大人になるとはそういうことなのだろうか。

 

今は、晴れた空だけが正しい事のように思えてしまう。

晴れた空の下、しっかりとセットされた髪型で仕事に行き、一日一日を全うする。でも雨が降っても仕事に行くし、たまに水溜まりを踏んで最悪な気分になったりもする。

 

大学の頃は雨が降らない日だけ、居酒屋の床のせいでアザだらけの足と、明るい色に染めた髪の毛にビニール袋で授業に行っていた。

決まって前期の出席はギリギリだったが、なんとなく、そんな日々が永遠に続いてほしいと思っていた。

ブログブログブログ

ごくたまにある、他人と感情を分かち合えた瞬間がものすごく好きだ。

ほろ酔いで煙草を吸いながらベランダに出て、お互いの重い話を煙に乗せて夜に溶かすと、世界とも、隣にいる相手とも、近くなれた気がした。


ハタチくらいからなんとなく、そんな夜を数えている気がする。

それなりに遊んで、それなりに色んなものをサボって来たけれど、自分をサボってしまっては、寂しくて虚しい。当たり前なことに23歳にして初めて気付く。

 

 仕事で使う為にブログを始めて1年以上経った。もう仕事では使っていないのだが、なんだかんだ掃き溜めのつもりで続けている。

共感できる、とか、文章が好き、とか、読んで救われたとか、思いがけず色んな声をいただけてすごく嬉しい。

ブログだけはなんだか見て欲しいし、ある意味見た目よりも気にできる最後のものって感じで、大事にしたいと思っている。

今日も仕事をサボって好きなCMを見て泣きそうになっていたのだが、私も自分の言葉で誰かの心を少しでも動かせたら、誰かの心と私の心が少しだけでも触れ合う部分があったら、すごく幸せだな。

 

 小さい頃からたまに変わってるって言われることがあって、でも自分は普通だと思っていた。それがすごくコンプレックスだった。それを払拭するために、人と同じでいたくないと思い、少し変な行動に出てしまうだけだった。でもその考えと行動自体が変わっているということなのかな、、、?と、なんだか「普通」について、自分の中で堂々巡りしてしまっていた。

そんな自分の感情の掃き溜めのつもりで書いた文章に、共感してくれたり、面白がってくれる人がいることを知って、やっぱり「普通」は分からないけれど、自分を肯定されているような気になった。共感も違う部分も持って、みんなで生きていこ♡という、ピースフルな気持ちになれる。

あとは私は人と関わったり、感情や思いを口に出すのが下手な分、文章だとスラスラと伝えられる気がしている。人との距離感を測りすぎて、近付くことを恐れてしまっている分、一方的に吐き出した感情に共感してもらえるのはものすごく楽をしているのかもしれない。でも、自分の事を好きでいたいから書くし、書くことで私に近付いてくれる他人のことももっと好きになりたい。そんな人達はめちゃくちゃ尊い存在であるってことを再確認できる素敵な手段を見つけてしまったのだ。

あくまで生きているのはオフラインであって、面と向かって伝えなくちゃいけない場面ばかりであるが、文章にするしかないような、誰しも抱える不器用な部分を一緒に生きていけたらいいと思っている。だからめちゃくちゃ恥ずかしいけど日記兼デトックスのつもりでブログを書くし、公開するし、たまに感想を貰えるのがとても嬉しい。

「普通」と「個性」と「共感」の間の日常を、これからも書いていこうと思っている。

上京

猫を飼ってみたい。

都内のマンションの一室で恋人と猫と生活をしてみたい。

家賃は高くなくていいから少し街が見える階に住みたい。

新海誠が描くようなマンションが好きだ。

 

東京は愛せど何も無い。

私も東京に出てきてからそう思った。

なんでもありすぎるし、人の思いが多すぎる街だ。たまに物凄く疲れる。

SNSで簡単に人の思想や生活を覗き見出来るけれど、東京でキラキラと暮らしている人を見ると何故か疲れてしまう。勝手に人の生活を見て勝手に疲れて、インターネットと東京と3人で生活しているみたいだ。

猫と恋人と暮らしたいのになあ。

 

でも、無数の生活と思いがあって、なんでもある東京を私は確かに愛している。マンションの隣の住人のテレビの音にも慣れた。

ここで、東京で、生活していきたいと思う。

それでもきっと私に残る物って何も無いんじゃないか。そんな分かりきったことを思いながら、窓を開け放して東京の鳥の声を聞いている。

うるさいくらいがちょうど良い。東京

地獄でなぜ悪い

死のうと思っていた。

漠然と、遺書を書いて首でも吊ろうか、薬を沢山飲もうか、なんて考えていた。

両親だけが気掛かりで、私が死んだら一生引きずるのだろうなと考え、今まで自殺を踏みとどまっていた。でも彼らは持ち前の明るさと仲の良さで、確実に深い傷は残りながらも2人で残りの人生を楽しめるのかな、と思った。

いつも生きづらさを感じていたし、その原因も分からない。長生きする気もないし、不慮の事故などでいきなり死んでも良い。寧ろ周りを傷付けずに先立つには、その方法が1番良いのではないかと思っていた。信号は守らず左右を見ずに渡るし、電車は1番前に乗る。交通事故に遭うのも電車が脱線するのも馬鹿みたいな可能性で、その話を前の恋人に話した時はすごく笑われた。当時私は至って真面目に偶然の死を作り上げようとしていたので、笑われたのは不本意だった。しかし、作り上げようとしている時点で偶然ではないし、そんなことを真面目に実施していたのは本当に笑える。笑えるな、と思っていつの間にか生きながらえていた。

偶然の死亡作戦は失敗に終わったのだが、今度こそ死のうと思った。たまたま仲良くなった男の子の家で寝た後、漠然と、帰って遺書を書いて死のうと思った。思い残すことは特にないし、やりたいことも無い。死ぬ前にやりたいことリストを見返したが、死ぬとなると全部どうでも良く思えた。

次の日に約束があったが、申し訳ないが私は今日死ぬから行けない、復職に向けた産業医面談も出来ない。

家に帰るととてもお腹がすいていた。今週中に3キロ痩せると決めていて、しばらく何も食べていなかった。そのせいで何もやる気になれず、遺書を書くのも死ぬ準備をするのも面倒くさくなった。死ぬのってすごく面倒くさいことだし、生きるってお腹が空くことだ。お腹が空いて自殺を思いとどまるなんて、人を簡単に死なせない仕組みが上手くできているな、と思った。それでも真夜中にものすごく不安に襲われて、不安と格闘した後、結局負けて医者から処方された薬を飲んだ。人生において不安な時間やマイナスな事を考えることが多すぎて、それを薬で抑えることにすごく抵抗がある。不安なのも自分の一部であり、それが完全に無くなったら自分で無くなってしまうような気がするし、好きな音楽ややりたいこと、やってきたことを否定するような気がしている。マイナスな自分も自分であって、その自分を無くしたくない。とはいえしんどい気持ちはあるので、少しでも楽になりたくて薬を飲んでしまう。睡眠薬精神安定剤を用法用量通りに飲む患者などいるのだろうか。少しだけ多めにそれらを流し込んだ。

気が付くと次の日で、薬を飲んでからの記憶が完全に抜け落ちていた。産業医面談の時間が迫っていて、簡単にメイクをして面談をした。働くことしかできないので、嘘に嘘を重ね、復職できるようになった。誰か本当のことを聞いて欲しい。話がしたい、と思った。

産業医面談の後、前日の薬の効き目が残っていたのか猛烈な眠気に襲われて、また気付いたら夕方だった。だらしない人間なので、すぐに気付いたら夕方になってしまう。そんな日を何日も過ごしてきた。そうだ約束に行かなければ。同世代の馬鹿みたいな友達と会うわけではないので、なるべく子供だと思われないような服装に着替えて出かける準備を始めた。TPOに合った服装をすることは出来るし今までもそうしてきた。育ちは良い方だし敬語も使えるし、服装にも気を使える。自分の社会的な一面は割と好きだ。

今回は待ち合わせ時間に間に合った。筈だ。    人との待ち合わせに毎回遅れてしまう。良かった、と思いながら待ち合わせ場所に向かい、お店に入った。

自然と自分の話を沢山してしまった。話したい事が次から次へと出てきたし、私を褒めてくれるのが嬉しかった。お店を出て、外でも話したが、こういう事の積み重ねで一日一日を生きているし、これからも死にたいと思いながらもだらだらと生きていくのかな、と思った。生きづらいけれど、たまに自分のことをいいと思わせてくれるような人がいたり、生きていて悪くないなと思える瞬間がある。よく死にたいという人ほど長生きをする、と言うけれどまさに自分のことで、そんな気持ちを馬鹿には出来ないなと思った。

気付けば今日も夜が明けるし、多分明日以降も私は生きるのだと思った。