kikurageoisii’s diary

東京のOL23歳 

あのこは貴族

煙たくてうるさい居酒屋にバーキンを持って行って、何も答えられなくて、逃げ込んだトイレの汚さに怯え、逃げて帰る、実家は松濤。初等科からのお嬢様学校の友達と休日はホテルのアフタヌーンティー。本当にそんなお嬢様がいるのだろうか、と思った。

私の事になるが、所謂「お嬢様学校」で中学から大学まで過ごした。周りは確かに「階層」が違うお金持ちが沢山いて、「外部生」「内部生」も存在した。しかしみんな、放課後はマックで駄弁るし、大学生になったら汚い居酒屋にも入り浸った。

この映画で描かれている「階層」は、リアルなのだろうか、と少し思ってしまった。

でも、婚約者の青木幸一郎の「階層」をこの映画で見た時、確かにそれは存在するもので、「階層」が違うと一生その暮らしが交わる事は無いのだろうと思った。現代にも「生まれ」や、「家柄」は存在していて、続いていく。それは決して自分から剥がれないものである。

ただ、お金持ちが幸せな訳では無いよ、ということを投げかけてくるだけの映画では無いのは確かである。美紀が言っていたように、どんな場所でどんな育ち方をしても、最高な日も最悪な日もある。ただそれを共有できる人がいるだけで、かなり幸せなのではないか、ということだ。

「運命」のようなものは、簡単には左右できない。華子や、幸一郎、もっと言えば華子の同級生のように、意思を持たないことが、その家で、その環境で生きていく上で、1番楽だったりする。

しかし自我と対峙した時、家柄や運命に押し潰されて良い程現代の私達の心は簡単ではない。

東京で生きるにしても沢山の選択肢がある今、だからこそ華子が土を触る事、土からトマトを育てる事、つまり意志を持って新しいものを育てる事が、この映画の次の章のような気がした。